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都知事選の投票先

なかなか厳しいかもしれないが増田に入れた。小池も鳥越よりマシだとは思っているが、自分の中では防衛相をやめたときの心象がよくない。都知事もなにかあったらすぐやめてしまうんじゃないかと思っている。あと、実務をほっぽってパフォーマンスに走りそう。規制も進みそう。

あと小池だと都議会の自民と対立するのは明白なのでそこで都政が停滞するのは好ましくない。自民を全面肯定しているわけではないので都議会の補選は共産党に入れた。

そこらへんはバランスをとったということで。

俺は自由民主党に入れない ~参院選2016~

  とは言うものの左かと言えばそうではなく内閣も支持している。よくよく考えた結果、投票先は↓のようになった。

今回、自分の中での判断要素となったのは以下の2点だ。

  • 反規制か
  • 改憲勢力か

 比例区の投票先はすぐ決まった。表現規制に反対する山田太郎議員だ。政党も保守である新党改革からの出馬となり特にケチはつかない。ただ実際に当選の見込みがあるかというとかなり厳しい印象ではある。ただ意思表明が大事であるし、もし今回無理だった場合でも今後反規制運動を続けていくのであれば支援したいと思っている。正直ロマン票である。

 問題は選挙区である。これは悩んだ。自分は東京なのだが枠が6つもある。1枠なら自民に入れるのだが、6枠となると選択肢が広がるため判断が難しい。基本的に自民支持だが、自民一強を望んでいるわけでもない。東京選挙区の自民候補は2人いて、中川雅治朝日健太郎だ。中川は間違いなく当選するからよしとして、朝日は元スポーツ選手だ。元スポーツ選手枠は無条件に入れたくない(自民としてはいらんことする心配がなくて扱いやすいのかもしれないが)。さてどうしたものかと情勢をみてみると、「おおさか維新元職の田中康夫さんと民進現職の小川敏夫さんは当落線上で争う」とのことだ。田中康夫は正直あまり好きではないが民進よりかはましだし、何よりおおさか維新は改憲勢力なのでここは手助けしてやるかということで一票をいれることにした。田中というよりはおおさか維新にである。

 自分の理念としては多様性のある保守(改憲勢力を保守というのはおかしいかもしれないが)が望ましいと思っている。自民だけでは暴走しそうなので、公明やお維のような政党がなるべくまともなことをいう形になって不安定でない程度の連立・協力関係が維持されるのがよいと思っている。正直にいうと表現規制をしない自民が欲しいのだ。

 また今回は改憲勢力が三分の二をとれるかが注目ポイントだが、だからと言って改憲が「争点」というのはおかしな話だ。三分の二はあくまで発議でしかない。それを改憲の是非になるならもし改憲勢力が三分の二をとったら改憲は民意と考えてくれるのだろうか?明治憲法下ならまだしもまるで国民投票がないかのような考えだ。

 ※都知事選でも投票先の考え方について同様のエントリを書いてみたい。

信なくば立たず

 

zasshi.news.yahoo.co.jp

 なんだかアホみたいな擁護が湧いているが舛添はやめて当然なのである。違法ではないというが都知事として求められてるのは法を犯さないということではない。知事という公職を任せられる人物か否かということである。法律を守るだけなら俺にでもできる。法は守って当然だ。

 地方自治において議会が出すのは不信任決議というものだ。信任が基準であって、違法かどうかではない。これが通ると首長は何もしないと10日で失職する。議会がこいつには信じて任せられないぞと決めただけでその地位を失いうるのである*1。自治体の長というのはそれだけ信任を受けなければ維持できない重い地位なのだ。知事として居続けるには議会においては不信任決議を出されない、かつ市民からは直接選挙によって選ばれる、という両方をクリアすることが求められる(上記エントリによるとなぜか後者のみしか触れていないが)。そうした市民からの間接・直接の二重のチェックによって地方自治は維持されているわけである。cf. 不信任決議 - Wikipedia

 翻って舛添の対応を振り返ると到底、都民、議会の信任に応えるような対応ではなかった。政治の機微機微と言って会議の相手を明かさないし(もし会議自体なかったのなら虚偽記載で不法行為なのだろうが、違法じゃない勢はそういったことも考慮してないのだろうか?え?会計責任者だけが対象だから問題ない?そうですか)、コンサートや野球観戦に招待されたというが誰からとも言えない。私の印象では知事の地位が掛かっているにも関わらず会議の相手や招待した人を明らかにできないということは実際にはそうした人はおらず、単に私的目的だったのだろうと推測するほかない。もちろん証拠はないが、そうでないというのであれば説得してもらう必要がある。説明責任は知事側にあるのだ。裁判ではないのだから疑わしきは罰せずは通用しない。疑わしきは信任せずでよいのだ。こっちが信じないといけない義理はどこにもない。

 こうした感想は私に限らず、都民一般の感情だったろう。そうした多くの意見を汲んで都議会でも全会一致で不信任決議提出へと舵を切ったわけである。この流れは十二分に民主的ではないか。

 多分、文句がある人はメディアが煽ったとかいうのであろうが、そうした意見は是非BPO総務省に出して頂いて各放送局に放送法の遵守を求めるようにしたらいかがだろうか?(何の違反があるかは知らないが)

 

「舛添叩き」が衆愚の極みである理由 (HARBOR BUSINESS Online) - Yahoo!ニュース

何度も言ってるが、政治資金は税金から出てなくて、支援者の個人献金なんだよ。政党交付金は税金だけど舛添は無所属だから無し。そこを明確にした報道がほぼゼロな時点で、世論誘導して辞任に追い込む狙いが明白。

2016/06/15 09:46

b.hatena.ne.jp

 また↑のような大変見苦しい擁護が湧いているが舛添の政治資金は元を辿れば7割が税金である。逆にいうと個人・企業から献金やパー券由来のものは3割程度ということだ。すぐググればわかることなのにこうしたデマに近しい言説を垂れ流したり、よく確認せずにスターをつけてしまうことこそ衆愚というほかない。(単にリテラシーがないのだと信じたいが)

また、交付金についての言及は第三者の厳しい?調査報告書の初めの方にもあるのだがまったくの観測外らしい。cf.http://otokitashun.com/blog/togikai/11612/ (リンク先PDFの4-5pあたり)

 仮に100%個人献金であったとしても収支報告でウソをつくような人間を知事にしたくないし、虚偽記載であれば当然、法律違反になる。追及内容は変わらない。別に税金を返せと言っているわけではない(本当は返してほしいが)。都民は知事として信任できないねと判断したに過ぎない。ただそれだけの話だ。

 

 

 

*1:対抗手段として議会解散があるが、政策対立ならまだしも今回は舛添側に全く大義がない。

なぜクマラスワミ報告を擁護してしまうのか?

 

女性自衛官のブログ 自民党が問題視|日テレNEWS24

吉田証言が捏造と判明したにも関わらず、報告書の該当部分の撤回を拒否した人と同席することが光栄だなんて言ったら、歴史修正主義礼賛と思われかねないでしょ?いつもの歴史修正主義批判はどうした?

2015/07/09 10:55

 

ニュースの内容自体は5月ぐらいから一部で話題になっていたようだが、ここにきて表面化してきたようだ。

私の意見は上のブコメの通りで当然の対応だと思うのだが、他のブコメの反応はそうではないようで、そもそもクマラスワミ報告に対する認識が足りていないのではないかと伺える。

hate_flagが「クマラスワミ報告書は吉田証言を肯定してないからね。」等と言ってきたが、かなり認識が甘いのではないか?「肯定していないから修正する必要はない」ということだろうか?

 

クマラスワミ報告書は単なる証言集といったものではなく本人の意見が書かれている報告書だ。

ここで吉見義明*1がクマラスワミに送った手紙の内容を秦郁彦が紹介しているので以下に引用する。(孫引き失礼)

(略)吉見義明教授もク女史あてに書簡を送った。

全文は公開されていないが、日本の戦争責任資料センターが三月一日付で刊行した『R・クマラスワミ国連報告書』の「解説」は「率直にいって確実に事実誤認と思われる箇所がいくつかある。

その訂正は早急にクマラスワミ氏によっておこなわれるものと期待している」として、吉見がク女史あての書簡で指摘した要点を紹介しているので、要旨を次に引用したい。

 

"誤りの原因について述べますと、ヒックスに依拠した点が問題です。この本は、誤りの大変多い著書ですので、notesから削除したほうがいいと思います。一例をあげると、彼は吉田清治氏の経歴をまちがえている。彼は東大卒ではなく、東京にある大学を卒業したものです(吉田の本による)。

またヒックスが引用している吉田氏の著書の「慰安婦」徴集の部分は、多くの疑問が出されているにもかかわらず、吉田氏は反論していません。・・・・・・吉田氏が反論することは困難だと思われます。吉田氏の本に依拠しなくても、強制の事実は証明することができる(誰が強制したかを別にすれば、日本政府も徴集時や慰安所での強制を認めている)ので、吉田氏に関連する部分は必ず削除することをお勧めします。"

( 秦郁彦慰安婦と戦場の性』P.280 ) ※強調は引用者による

*2

 

つまり吉見のような全うなリテラシーに基づいて報告書を読めば、クマラスワミ報告は「吉田の本に依拠して強制の事実を証明しようとしている」のであり、吉見のような知的誠実さに基づけばその箇所は削除すべきだという結論に至るはずなのである。

具体的には報告書の29節で言及があり、強制連行の証言の一つとして吉田証言が挙げられている。 (報告書へのリンク 正文 和訳 )

一方、40節に秦の反対意見も書かれており、両論併記であり、吉田証言を肯定しているわけではないという意見があるが、これは納得しかねる。というのは29節の方では吉田証言を自説への証拠として用いているにも関わらず、40節では秦はこう言っているという紹介レベルの言及であり、では吉田証言の信憑性はどうなるというような評価もしていない。扱いに差があり併記といえるような等しい扱いではない。

中立であればそもそも自説への補強に用いないはずだし、肯定的立場であるのは間違いないだろう。

*3

 

吉見もいうようにもし結論が変わらずとも根拠に誤りがあるのであれば、そこは訂正すべきだというのが全うな知的誠実さに基づく歴史認識だろう。

にもかかわらず、修正の必要はないというような意見が多いのは、おそらく修正してしまうと慰安婦否定論者に勢いを与えることになりそれを回避したいというような思惑があるのではないか。被害者よりのバイアスが悪とまでは言わないがそれによって知的誠実さが損なわれてしまうのであればその様態も一つの歴史修正主義と言わざるをえまい。

政治的意思によりそういった立場をとることは当人の自由であろうが、私にはどうせ犯人なのだから捏造証拠でもって有罪にしてもよいと考えるような検察の姿が連想される。

そのような立場は真の被害者救済から遠のくだろう。クマラスワミ報告同様にもう一つの慰安婦についてまとめたマクドゥガル報告書も大変問題があるのだが、元アジア女性基金理事である大沼保昭は自著の『「慰安婦」問題とは何だったのか』の中で両報告を評して以下のように述べている。

 国連の特別報告者の報告がすべて水準が低いというわけではない。学問的研究としてみても優れた報告もなくはない。ただ、たまたま二人の報告はレベルの低いものだった。「慰安婦」問題という、多くの人の関心を集めた問題に関する報告がお粗末なものだったことは、国連の権威と信頼性を傷つけるもので、残念なことだった。それをひたすら持ち上げた日韓の知識人、NGO、メディアの姿勢も、恥ずかしいものだったというほかない。

 むろん、専門を異にする学者や専門的知識をもたないNGOやジャーナリストが、国連報告者の報告の学問的水準を判断することは難しい。そうした非専門家に、そこまで厳密な判断を求めるのは酷である。しかし、なればこそ、非専門家は正確な判断を求めて優れた専門家を探し、彼(女)らの意見を仰ぐ努力を尽くすべきである。そして、その専門家の意見が自分たちの求めるものと異なる場合は、その苦い真実に向かい合い、NGOは自己の主張や運動を再考し、ジャーナリストはみずからの報道や主張にそうした苦い真実を反映させるべきである。

慰安婦」問題を扱ったNGOやメディアの多くは、こうした地道な努力を払わなかった。その結果、クマラスワミ、マクドゥガル両報告の過大評価が生じ、それが被害者支援運動を誤らせた。「慰安婦」問題における「クマラスワミ・ブーム」はこうした苦い教訓を後代に残しているのである。

大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか』P.151  ※赤強調は引用者による

 

同じ轍は踏みたくないものだがそもそも当初の過ちが未だに共有されていないように思われる。

 

※またよくこの報告書が国連の見解だのように思われているが、内容は「留意」されている。普通は「歓迎」されるが、日本側のロビー活動が奏功したようだ。その経緯は秦の前出書P.279-286に詳しい。

 

 

慰安婦と戦場の性 (新潮選書)

慰安婦と戦場の性 (新潮選書)

 

 

*1:岩波新書従軍慰安婦」の著者。いちいち説明するのも逆に失礼な気もするが・・・

*2:Web上では公式ではないが
http://space.geocities.jp/japanwarres/center/library/cwara.HTM
で該当の資料が読める。

*3:ちなみに秦は「ク女史は吉田の証言を引用してはいるが、私から注意されたり本人に面接を断られたこともあってか、自信を持てなかったらしい。」と評している。秦 前出書P.271

砂川判決の判例としての射程について

allezvous.hatenablog.com

上のエントリについて反論する。

 

1.統治行為論*1判例の部分は日米安保に限定されたものか?
2.判決要旨は判例ではないのか?

主だった論点は上記2つだと思うので各々論ずる。*2

1.統治行為論判例の部分は日米安保に限定されたものか?
→限定されない。

実際の判決で選挙制度について援用されている。(高裁の本案前の答弁の理由において)

憲法八一条は、具体的訴訟事件につき裁判所に違憲立法審査権を認めているが、三権分立憲法の原則である以上その審査権には自ずから限界があり、立法府自らの解決が要請される高度の政治問題については立法府の専権事項として司法判断が不適合とされている。この点については既にいわゆる砂川判決等において判例上も認められているところである。http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail5?id=36026 (全文PDF P.16)

なので日米安保について限定されるという認識は誤りである。

(20150619追加) 上の引用は被告主張であり裁判官の判断ではない。私の恥ずべきミスであり訂正し、失礼ながらも以下の論拠に差し替えする。

 

砂川判決は実は新安保条約にも判例として適用されている。お前は何を言っているんだと思われるかもしれないが、実は砂川判決(1959年)自体は旧日米安全保障条約に対して下された判決である。その後、いわゆる60年安保として実質改定されたが、形式としては別条約である(ただその違いに固執するつもりはない)。

さて、新安保条約についての適用は 昭和44年4月2日に最高裁大法廷によって国家公務員法違反の事件についてなされた。(以後、新安保判決と呼ぶ。もっとちゃんとした名前があるかもしれないが。)*3

注目すべきはその適用のされかたである。(下記引用は判決の理由部分からである。強調は引用者による。)

しかし、新安保条約のごとき、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係 をもつ高度の政治性を有するものが違憲であるか否かの法的判断をするについては、 司法裁判所は慎重であることを要し、それが憲法の規定に違反することが明らかで あると認められないかぎりは、みだりにこれを違憲無効のものと断定すべへき(原文ママ)では ないこと、ならびに新安保条約は、憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に反し て違憲であることが明白であるとは認められないことは、当裁判所大法廷の判例( 昭和三四年(あ)第七一〇号、同年一二月一六日大法廷判決、刑集一三巻一三号三 二二五頁)の趣旨に照らし、明らかであるから、これと同趣旨に出た原判断は正当 であつて、所論違憲の主張は理由なきに帰する。

http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=50779

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/779/050779_hanrei.pdf P.7

「新安保条約は~である」という言い方ではなく「新安保条約のごとき~は」という一般化された表現になっている。これは砂川判決、判決要旨八項*4と同じ形である。

allezvousはこの表現を「判決を過度に規範化している点でやり過ぎだ」と批判したが、実際は「過度に」規範化されたものが用いられている。何のことはない、つまり砂川判決の判決要旨八項は「過度な一般化」ではなかったのである。

もし仮に砂川判決は特殊であり、新安保判決が特段の事情があって一般化の必要があったのだとしたらその論理が示されるべきだがそういったものは見当たらないし、そもそも示したところで特殊論となる砂川判決の「趣旨に照らす」ことなどできないであろう。

よって砂川判決の統治行為論判例の趣旨として安保(新旧問わず)に限定したものではないといえるだろう。

また傍証となるが、別の判決の傍論として裁判官の砂川判決についての認識が提示されている。

多数意見が、各選挙区に如何なる割合で議員数を配分するかは、立法府である国 会の権限に属する立法政策の問題であるとしている点は、私にも異論がないところ である。しかし、多数意見が、現行の公職選挙法別表二が選挙人の人口数に比例し て改訂されないための不均衡が所論のような程度ではなお立法政策の当否の問題に 止るとして、例外の場合すなわち、選挙区の議員数について選挙人の選挙権の享有 に極端な不平等を生じさせるような場合には違憲問題が生じ、したがつて右別表の 無効を認める場合のあることを示唆している点に、私は危惧を感じる。

いわゆる砂川事件の大法廷判決(昭和三四年(あ)第七一〇号同年一二月一六日、 刑集一三巻一三号三二二五頁)が「一見極めて明白に違憲無効であると認められな い限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて」といつているのも同様な 考え方であると思うが、ある事項を原則的には裁判所の司法審査の対象から除外し ながら、例外的にはその事項につき司法審査のおよぶ場合のあることを留保していることは、司法権の権威を守り、裁判官の職務に忠実ならんとする熱意の現われと もいうべきものであつて、それは延いて国民の基本的人権の擁護に奉仕するもので ある。

(略)

http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=053126

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/126/053126_hanrei.pdf P.2

 考え方としては安保条約の部分が「ある事項」というように抽象化されており、なんら安保に限って捉えていないことがわかる。(ちなみにこの意見は、砂川判決や当判決での「一見極めて違憲なら審査するよ」という態度を批判している。つまり国民に変な期待をさせず純粋な統治行為論をとれと言っているなかなか興味深い意見である。)

(追記以上)

2.判決要旨は判例ではないのか?
判例として用いられる場合もある。

最高裁が判決の理由部分において他の判決要旨を参照している事例がある。

~は当裁判所判例の趣旨とするところであり(昭和二六年(あ)第一六八八号、同三〇年六月二二日大法廷判決、刑集九巻八号一一八九頁判決要旨第六点。同二七年(あ)第四二二三号、同三一年七月一八日大法廷判決、刑集一〇巻七号一一七三頁判決要旨第二点。

http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=058682  (全文PDF P.1)

(20150619追記) ※allezvousのコメント*5判例判例の趣旨は異なると指摘された。確かに表現に違いがある。しかし1でみたように判決の趣旨というものはある判決の結論命題を「判例の趣旨に照らして明らかに」するというように用いられる。同様に結論命題は「判例とするところである」という表現もある。いずれも判例の適用という点では重要な要素だ。

これはどちらが正しいということではなく、先の判例と同様の事例(程度はともかく)であれば後者の表現を、先の判例から一般法理を読み取れ、それが今回の事例にも適用できる場合は前者の表現を用いるのではないだろうか。

なんにせよ判例の趣旨というものが先例拘束力を持っていないのであれば重要な判決の理由部分で参照する道理はないと思われるので、そうではないと考えるのが妥当だろう。

(追記以上)


また判決要旨というものは「最高裁判所判例委員会の厳密な検討により各判決に付加された部分」*6であり、調査官が一人で決めるものではない。

また、補足意見であるが横田基地夜間飛行差止等請求事件の最高裁の判決において以下の意見がある。

判例委員会において取り上げられた判示事項・判決要旨は,その判決
の持つ先例的意義・価値を理解する上で重要な導きをするものであることはいうまでもないが,その判示事項・判決要旨がすべて「判例」となると解すべきではないし,逆に判示事項・判決要旨として取り上げられていないからといって「判例」ではないと解すべきものでもない。要するに,その判決が,どのような事案においてどのような法理を述べ,それを具体的事案に当てはめてどのような判断をし,解決をしたのかを理解し,先例としての意義・価値や拘束力があるのはどの部分であるかを探求すべきものである。

http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=34710(全文PDF P.7)

上記意見を読むと「判示事項・判決要旨」というものは基本的に判例となるが、判例にならない部分もあるというように読める。

ともかく「判示事項・判決要旨」なぞ判例ではないという認識ではないことは確かだろう。

 

判決要旨を巡る議論は他にもあったので参考に紹介する。強調は引用者による。

この判例委員会による「判示事項」「判決要旨」の判決文からの摘出を,そのまま判例とみてよいかが,これまで判例の学問的な研究の際に問題とされた点である。学問上は,事案との関係で先例規範の範囲を独自に抽出確定することが重要であるとされた。大村敦志ほか・前掲注17)318頁

(「判例に関する覚書」P.227)

※元々は大村敦志ほか『民法研究ハンドブック』P.318 によるものと思われる。孫引き失礼。

 

「判示事項」「判決要旨」は判 決そのものの内容を構成するものではなく,「その判 決・決定がなされたあとでその裁判をした大法廷・ 小法廷ではない第三者(判例委員会)の作成したもので,判決・決定の一部をなすものではない。」 (中野次雄編「判例とその読み方」(改訂版)(30頁)) そして,同書は,「判例集に登載する裁判の選択は, 最高裁判所に置かれている判例委員会でなされる (判例委員会規程 1,2 条)。7 人以下の裁判官が委 員となり,調査官および事務総局の職員が幹事と なって,原則として月 1回開かれている。そこで, 判例集に登載されることが決定された判例について は,幹事の起案した判示事項,判例要旨,参 照条文なども審議決定される」(106頁)とし,以下 の通り説明されている。「もちろん,作成者としては, その裁判の「判例」だと自ら考えたものを要旨とし て書いたわけで,それはたしかにわれわれが「判例」 を発見するのに参考になり,よい手がかりにはなる。 少なくとも,索引的価値があることは十分に認めな ければならない。しかし,なにが,「判例」かは大いに問題があるところで,作成者が判例だと思っ たこととそれが真の判例だということとは別である。 現に要旨の中には,どうみても傍論としかいえないものを掲げたものもあるし 稀な過去の例ではあるが,裁判理由とくい違った要旨が示されたことすらないではない。判決・決定要旨として書かれたものをそのまま「判例」だと思うのはきわめて危険で,判例はあくまで裁判理由の中から読む人自身の頭で読み取られなければならない。」(30 ~31頁) 

村林 隆一「判例と傍論 」

https://www.jpaa.or.jp/activity/publication/patent/patent-library/patent-lib/200304/jpaapatent200304_079-084.pdfP.81

これまた中野次雄編「判例とその読み方」によるもので孫引きとなり申し訳ない。

 

以上の議論を総合すると、「判例判例単体で成立するのではなく、別の事案とのかかわりにおいて確定する。判例要旨は判例として参照されることもあるが、おかしなこともあるので気をつけること。」と言ったところだろうか。私としては完全に同意しかねるところもあるが、そもそも日本の判例法は事実上のものでしかないので、個々人の良心に負う部分が大きくなるのは避けられないのかもしれない。

まとめ

砂川判決に話を戻すと判例としての統治行為論は事案や読み手の裁量によって適用され方が異なると思われるが、実務上は1で述べたように選挙制度にも一般化された形で適用されている(20150619訂正)。よって客観的には日米安保には限定されていないのは明らかだろう。

以上

*1:砂川事件で用いられたそれは変則的といわれているが煩雑になるのでここでは統治行為論とする。

*2:allezvousの主張に対して、私が反論に必要以上の主張を入れたために議論が枝分かれしているきらいがあったため論点を絞る。元エントリではマクリーン事件に言及した部分があったのでそれについては後日エントリをあげたい。

*3:ちなみにこの判決自体は大変興味深い。というのは新安保の前文には日本が集団的自衛の固有の権利を有していることを確認するとあるからだ、つまり最高裁はそれを認めている。つまり、持っているが行使できないのであれば日本は行使できない権利に基づいて米と約束をしていることになる。これは信義則としても憲法九八条二項としても問題だ。もっと言えば集団的自衛権を行使しないことこそが憲法違反であるという論立ても可能のように思われる。これは別途検証したい。

*4:「安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否の法的判断は、純司法的機能を使命とす る司法裁判所の審査に原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外に あると解するを相当とする。」http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=55816

*5:本エントリコメント欄参照

*6:判例に関する覚書」http://www.sllr.j.u-tokyo.ac.jp/06/papers/v06part11%28tsuchiya%29.pdf P.227

九条の下でも集団的自衛権の行使は容認されているとする憲法学者は割りと多い(大体七名ほど)

まず周知のとおり、菅官房長官が挙げた三人

百地章日本大教授

長尾一紘中央大名誉教授

西修駒沢大名誉教授

東京新聞:官房長官 合憲論学者「数ではない」 安保法案 与党、会期延長検討:政治(TOKYO Web)

 

また、テレビ朝日報道ステーションのアンケート結果から二人ほど見出せる。(※強調は引用者) (もうひとりいるようだが、名前を出していないもよう)

ある憲法解釈が妥当か否かは、憲法学者の多数決や学者の権威で決まるものではない。重要なのは結論を支える理由や根拠である。集団的自衛権の行使許容論(上記)が憲法上可能な主張であることも紹介してほしい。安全保障という高度に政治的で、また、刻々と変転する国際情勢の動きに機敏に対処しなければならない課題を、憲法解釈という枠組みで論じることの是非こそが問われるべき。70年前の憲法の文言や40年前の解釈との整合性に腐心するのは、意味ある議論ではない。「歯止め」については、それを憲法に求めるのではなく、選良である国会議員や首相・大臣の判断をもう少し信用してはどうか(それが民主主義であり、たいていの国はそうしている)。重要な決定を迫られる緊張感に耐えてこそ、民主主義は逞しくなるのではないか。

九州大学大学院法学研究院准教授・井上武史

 憲法はその対象とする国家社会が存在するからこそ存在意義があります。その国家社会が存在しなくなれば、その憲法が定める憲法秩序を維持することもできな くなります。国家の存立が脅かされる事態に対し、国家を守るために真に必要な措置であれば、それは憲法秩序を守るために必要な措置でもあり、憲法がそのよ うな措置を認めない(違憲)とすることは自己矛盾であり、あり得ないことということになります。今回の安全保障法制についても、真に国家の存立を守るため に必要な範囲に留まっている限りにおいては、違憲ではないと考えます。

大東文化大学大学院法務研究科教授・浅野善治

 

また、資料をあたったところ以下のまとめがあったので紹介しておく。二人は明確に容認と読める。

(iii)9条の下でも集団的自衛権の行使は違憲とはいえないとする説(大石眞『憲法講義Ⅰ』[2004] 52頁, 安念潤司日本国憲法における『武力の行使』の位置づけ」ジュリ1343号36頁)、さらに、(iv)9条には集団的自衛権を禁止する規定はなく、その行使の是非は政策レベルの問題とする説(村瀬信也「安全保障に関する国際法と日本法(上)」ジュリ1349号96頁)も存するが、(iv)説では憲法による規律を論じる意義は失われる(なお、(iv)説は国連憲章の下での9条の独自の意味を減殺する可能性がある)。かりに(iv)説が9条は政策を統制する「原理」と解するならば、「いったん設定された基準については、憲法の文言には格段の論拠がないとしても、なおそれを守るべき理由がある」(長谷部恭男憲法の理性』[2006]22頁)。他方、(iii)説においては、集団的自衛権の行使については憲法改正によって明文化されるべきとも主張される(大石眞「日本国憲法集団的自衛権」ジュリ1343号46頁。大沼保昭護憲改憲論」ジュリ1260号158頁。2005年の憲法調査会報告書について、浦田一郎「報告書における集団的自衛権問題」法時77巻10号56頁参照)。

(「憲法の争点」 (ジュリスト増刊 新・法律学の争点シリーズ 3)  P.62)

大石眞(京都大学大学院法学研究科教授) ※ただし憲法改正によって明文化されるべきと主張

安念潤司中央大学大学院法務研究科教授)

村瀬信也(上智大学法学部教授)

 

また、 自己の合憲・違憲の判断ではないが、最高裁違憲としないだろうという横田耕一九州大学名誉教授の見解も載せておく。(前エントリより

 なお、司法審査権をもつ裁判所は、安保条約については最高裁砂川事件判決 (一九五九年)などで、自衛隊については札幌高裁・長沼事件判決 (一九七六年)などで、安保条約や自衛隊など「国家の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性をもつ」ものについては、「一見極めて明白に違憲無 効と認められない限り司法審査権の範囲外にある」として憲法判断を回避した。このため、九条と自衛隊・安保条約の整合性の有無は国民ないし政治の判断にま かされている。この判断が維持される限り、仮に閣議決定や法律などで、『案』のごとき改正を経ることなく、集団的自衛権」の行使が合憲として容認されたときには、具体的事件に関し訴訟が提起された場合でも、裁判所は同様の判断を示すであろう。

(横田耕一「自民党改憲草案を読む」 P.71) *1

以上、大石氏と横田氏は除いておよそ七名と判断した。

もちろん、井上氏がいうように大事なのは数ではなく、考え方である。

以上

*1:細かい話だが、この本は自民党改憲草案が付録としてついているが太鼓もち本などではなく草案に対して基本、批判的に書かれている

自衛権をどう行使するかは憲法を気にせず、みんなで決めましょう

結論

自衛権は個別的、集団的を問わず合憲であり、どう行使するかは憲法を気にせず、みんなで決めてよい。

 

理由

最高裁砂川判決の判決要旨において

憲法第九条は、わが国が主権国として有する固有の自衛権何ら否定してはいない。(判決要旨の四)

 

わが国が、自国の平和と安全とを維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置を執り得ることは、国家固有の権能の行使であつて、憲法は何らこれを禁止するものではない。(判決要旨の五)

と判断している。・・・① (強調は引用者によるもの、以下同様)

ここでいう固有の自衛権とは国際連合憲章に基づくもので以下のように言及されている。

そして、右安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあるこ とは明瞭である。

 上の部分はあくまで安保が高度の政治性を有するということを述べるための部分だが、最高裁固有の自衛権=個別的および集団的自衛の固有の権利と考えているのは自明だろう。・・・②

また、

安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否かの法的判断は、純司法的機能を使命と する司法裁判所の審査には原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲 外にあると解するを相当とする。

(判決要旨の八)

 

違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて~

(略)

終局的には、主権を有する国民の政治的判断に委ねらるべきものであると解するを相当とする。

(理由の二)

とも言っている。・・・③

つまり簡単にまとめると、最高裁

憲法は個別的にも集団的にも自衛権を否定しないよ。(①、②より)

国家の根幹に関わる法律等の審査は、明白に違憲じゃない限り司法審査権の範囲外(今回は合憲と判断したけど)なので、実際どうするかはみんなで決めてね。(③より)

といっていることになる。

なので自衛権をどう行使するかは憲法を気にせず、みんなで決めましょう。

 

※ 以降、Q&A方式で補足する。

Q.今回の安保法制は明白に違憲じゃないの?→じゃないです

砂川判決の統治行為論の部分(上記の③)ばかり取り上げられるので、今回の安保法制は明確に違憲だろ!みたいな主張をする人がいるが、判決を読んでもらえば分かるとおり、「憲法第九条は、わが国が主権国として有する固有の自衛権を何ら否定してはいない」ので、少なくとも九条によって違憲と主張することは最高裁の判断と矛盾する。そういう人は判決を読んでいないのだろう。

また、憲法学者でも合憲とする人はいるのだから、一見極めて明白に違憲でないことは客観的にも明らかだろう。

Q.判決要旨部分だから傍論であって、先例としての拘束力はないんじゃないの?→ある

最高裁判所判事で東京大学名誉教授の伊藤正己の見解を引用しておく。

最高裁判例集に登載される裁判は、最高裁自身が判例として承認したものであり、裁判に関与した裁判官にとって判例的価値の大きいものと考えられることは当然である。(中略)とくにそこで判示事項とされ、判決要旨としてかかげられるところは、一般的な命題の形でかかれているためにその射程範囲について問題はあるとしても、判例としての拘束力をもつことに疑いがない。

(伊藤正己「裁判官と学者の間」P.59)

簡単に言うと、判決要旨は何に適用されるかはともかく先例としての拘束力がある。自衛権についての違憲審査が今後、あったときに先例として踏襲される可能性が極めて高いということ。もちろん法的に拘束されているわけではない。

(20150619追記)

もっと細かい点についてはallezvousとの議論があるので興味ある方はそちらを参照のこと。

 Q.個別的自衛権についてだけ認めてるんじゃないの?→判決としては日米安保についての判断だが、判例としては集団的自衛権も含んだ形で拘束力を持っている

そもそも日米安保自体が個別的なのか集団的なのかは後述するとおり、政府でも混乱があった。

しかし前項で述べたとおり判例としての拘束力がある判決要旨では2つを分別せずに固有の自衛権として認めるように判示していることから、集団的自衛権も認めていると読むのが妥当だろう。

お前が言ってるだけだろとか言われそうなので九州大学名誉教授憲法学者・横田耕一の見解も載せておく。

 なお、司法審査権をもつ裁判所は、安保条約については最高裁砂川事件判決 (一九五九年)などで、自衛隊については札幌高裁・長沼事件判決 (一九七六年)などで、安保条約や自衛隊など「国家の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性をもつ」ものについては、「一見極めて明白に違憲無効と認められない限り司法審査権の範囲外にある」として憲法判断を回避した。このため、九条と自衛隊・安保条約の整合性の有無は国民ないし政治の判断にまかされている。この判断が維持される限り、仮に閣議決定や法律などで、『案』のごとき改正を経ることなく、集団的自衛権」の行使が合憲として容認されたときには、具体的事件に関し訴訟が提起された場合でも、裁判所は同様の判断を示すであろう。

(横田耕一「自民党改憲草案を読む」 P.71) *1

なので100%ありえないと言うような読み方では当然ない。

(20150615追記) 政府見解も概ねその通りに統一された。

防衛相 砂川判決は集団的自衛権排除せず NHKニュース

法制局長官、集団的自衛権「砂川判決で許容」 :日本経済新聞

Q.「固有の権利」ってなに?→自然権です

固有ってなんだ?と思う人がいるかもしれないので補足しておく。

孫引き的になるが、国際政治学者の佐瀬昌盛の見解を石破茂が著書で紹介しているので引用する。

佐瀬昌盛先生は、「固有の権利」とは人間でいうところの「自然権」、つまり生まれながらにして持っているものだと述べています。その論拠の一つとしてこの部分の外国語での表記を示しています。以下、それをかいつまんで紹介いたします。
英語で「固有の権利」の部分は「the inherent right」。このうちの「inherent」は「固有の」「本来の」「生来の」「……に内在する」という意味です。  佐瀬先生は次にフランス語訳、中国語訳の該当部分を引きます。フランス語では「droit naturel」。「naturel」は「natural」と同じですから、まさに「自然権」と訳されていることになります。また、中国語では「自然権利」とそのままの訳語があてはめられています。その他、スペイン語、ロシア語、ドイツ語の訳も検討したうえで、佐瀬先生は「固有の権利」とは「自然権」と同じだと断じています。

石破茂 「日本人のための「集団的自衛権」入門」 P.29-30)

つまり自然権なので憲法前の権利として、国家が当然に持っている権利であると、国際連合憲章も日本の最高裁も判断しているのである。

 

Q.政府見解が変わりすぎじゃない?→マジで変わりまくり

本当はもっと変わっているのだが大事なところだけ取り上げる。

そもそも政府は日米安保=集団的自衛権として考えていた!(60年当時)

他国に基地を貸して、そして自国のそれと協同して自国を守ることは、当然従来集団的自衛権として解釈されている点であり、そういうものはもちろん日本として持っている」(岸信介総理答弁 参議院予算委員会 1960/3/31)(同書 P.61)

 このように当時(砂川判決はもうちょっと前だが)の政府は安保自体が集団的かという認識であり、最高裁もその含みを持っていたために判決文でも特に個別的、集団的を分別せずに自衛権としてまとめて論じたのではないだろうか。

もし現状でも日本が侵略されたら自衛隊と米軍が協力してことにあたるので、当然それは集団的自衛と考えるのが当然ではないだろうか?だから集団、個別というのは基本、原則、様態によって判断するのであって、自衛の対象のみによって判別すべきではないと私は考える。(つまり国外に行くことだけを集団的自衛と考えるのは誤り)

※ただし、現政府見解では日米安保に関しては個別的自衛権の範囲だと言っている。

でも個別的自衛権だけと解釈するようになった

1981年の鈴木善幸内閣のときに以下の見解が出された。

「我が国が国際法上、集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然であるが、憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと解している」(1981/5/29 政府答弁書) (同書 P.64)

(岸の答弁とあわせるとじゃあ在日米軍はどうなるのって感じだが・・・細かいことは置いておく)

 

自民公約、閣議決定として集団的自衛権の復活

去年(2014年)の閣議決定集団的自衛権がポッと出てきたと思う人も多いかもしれないが実は2012年の衆院選から自民は公約として掲げていた。(PDFなどはこちら

日本の平和と地域の安定を守るため、集団的自衛権の行使を可能とし、「国家安全保障基本法」を制定します。

(第46回衆議院議員選挙(平成24年度)自民党政権公約 P.21より )

ただし、2013年の参院選以降は集団的自衛権の文言を削っており、ややずる賢い印象がある。

国家安全保障会議」の設置、「国家安全保障基本法」「国際平和協力一般法」の制定など、日本の平和と地域の安定を守る法整備を進めるとともに、統合的な運用と防衛力整備を主とした防衛省改革を実行します。

(第23回参議院議員選挙(平成25年度)P.27)

 

「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」(平成26年7月1日閣議決定)に基づき、いかなる事態に対しても国民の命と平和な暮らしを守り抜くため、平時から切れ目のない対応を可能とする安全保障法制を速やかに整備します。

(第47回衆議院選挙(平成26年度)P.24)

 

閣議決定については憲法上で許される範囲内で集団的自衛権が行使できるといっているが、実のところ冒頭の結論に基づけば集団的自衛権であれば元より憲法関係なく許されるのである。しかし、憲法解釈と絡めて論ずるあたり、内閣としては最高裁判断よりも抑制的に憲法解釈を行っているのだろう。もっと言わせてもらうと下手に憲法に絡めるから話がややこしくなるのである。「あ、実は憲法関係なかったわw」で本当はいいのである。大抵の人はこんなことを言うとビビるとは思うが、最高裁はそう言っているのである。私もビビった。

解釈改憲と批判する向きがあったが、あくまで政府の憲法解釈が変わっただけだ。(あるいはその人にとっては政府の解釈が憲法だったのかもしれないが。あるいはころころ解釈の変わる政府は信用できん!という批判はありだろう(だからきちんと法律を作ろうとしているのだが)。)

ともかく、文言の変遷はあるものの公約を掲げて三度も選挙を勝ったのだから、国民的合意は得られていると考えてよいだろう。自民は自信をもって審議、採決を進めていけばよい。

 

今回の法制案の審議、議論では表に出てきていない石破茂だが、↓の本は大変参考になった。彼も改憲不要で集団的自衛権行使が可能と考えている論者の一人だ。

日本人のための「集団的自衛権」入門 (新潮新書 558)

日本人のための「集団的自衛権」入門 (新潮新書 558)

 

 

石破も政府見解の変遷にはげんなりしているようで以下のように述べている。

「我が国は集団的自衛権国際法上保有しているし、憲法上も保有している。憲法上行使もできるが、政策判断としてこれを行使しない」と政府が言ってしまえばすっきりしたものを、行使しない根拠を憲法解釈に求め、ましてや「憲法上行使できない」としてしまったところに、そもそもの混乱の始まりがあったのではないでしょうか。

(同書 P.77-78)

残念ながら砂川判決についての見解などはないが、集団的自衛権については今のところ一番わかりやすい本だと思うのでお勧めしておく。

以上

※20150615 一部本文修正。判決リンクを最高裁ページに変更。

*1:細かい話だが、この本は自民党改憲草案が付録としてついているが太鼓もち本などではなく草案に対して基本、批判的に書かれている