匿名宣言

  • 私はアウトプットが苦手である。
  • はてブだと100字制限があるので、記事を見て思ったこと、つまり心象風景なようなものをささっとスケッチするように書くことができる。制約がアウトプットを後押ししてくれている。
  • 制約がないとあれもこれもとなり、取捨選択がしにくくなる。
  • 思考は先行する。当然、書く速度はおいつかない。というか考える速度は口よりも早い。
  • まっとうな人間なら、思考を反芻し、まとめなおして文章にするのだろうが、自分にはそれが大変億劫でならない。英語の勉強でもディクテーションが嫌いだが、わざわざ自分の思考ですら同じことをしたくないという気持ちがあるのだろう。
  • 実のところ、プログラミングにすら同じことが言える。キーボードを叩いている時間はあまり好きではないのだ。
  • ただ、思考のスピードを下げ、また書く速度を上げる訓練をすることによって、いくらか改善の余地はある気がする。
  • そもそもなぜそういう作業が嫌かというと、すでに通った思考なり論理というものを反復することに冗長さを感じたり、音楽的なリズムの狂いのようなものを見出すからだ。
  • 考えている自分はさっさと先に行っているのに書いている自分はもたもたしている。このもどかしさといったらない。今もこの文章を少し読み返しても「俺、こんなこと書いたっけ?」って思うくらいのズレが生まれているのだ。
  • アウトプットしたいという願望はあるものの、それまでにこういった億劫な作業が必要となるとなんかもう面倒くさくなって書きたいことがあってもまあ、いいやという気持ちになってしまう。
  • だからある意味、頭の回転が遅い人は幸いかもしれない。アウトプットの速度と思考の速度が一致するのが最も理想的だからだ。
  • 私にとってアウトプット自体が苦痛であるが、それでも今、手をがんばって動かしているのはなんらかの改善が必要であろうと思っているからである。なんらかの方策を見出して、改善したいという気持ちがあるからだ。
  • アウトプットが億劫である一方、その一期一会にしてしまったものたちに未練があるということなのかもしれない。
  • 作曲でいえば、ある素敵なメロディを思いついたとしてもそれを音符にすることもなく、ただ作曲家の頭の中で流れて、消えていく。それはあまりにももったいないし、悲しいことなのではないかとどこかで思っているのだろう。
  • ただ、自分がここでアウトプットしたいのはそんな美しいものではなくて、もっと実名で口に出してしまうのは大変憚れるゲスい気持ちなのである。つまり、ある種のデトックスをしたいのだろう。
  • 現実の真人間の私を保持したい一方で、この匿名空間での本性をむき出しにしたゲスい自分を『育てたい』『育みたい』という気持ちがあるのだ。
  • はてブの制約がアウトプットを押し出すのに倣いブログ等でもある種の縛りプレイを導入するのがいいのかもしれない。500字以内だとか。(しかしすでに1000字超え)
  • 解放が必要である。考えすぎないことが必要である。人がどうこういうだろうとか、こう反論されるかもしれないとかぐずぐず考えてはいけないのだ。自分の思考だけですら持て余すのに他人のそれもあれこれ妄想したところで堂々巡りになるだけである。
  • 養老孟司が反論を想定して書く文章はつまらないと言ったがその通りだと思う。やはり文章はもっと独白としてありたい。
  • 私自身の思考に忠実になりたいのである。素直な自分が生み出す、雑念のない自由な散策を楽しみたいのだ。
  • 一方で人に見て欲しいという気持ちもある。先ほどまでのことだけならチラ裏だろということになるが、「アウトプットが開かれた場所においてある」という認識が自己にとって好ましいということなのだろう。
  • はてブでも非公開にした状態でつらつら感想書いている人は稀だろう。多分、なんらかの癒し効果があるのだ。はてなスターとかも。
  • 人が実際に見る見ないはともかくとして、アウトプットを開かれた場所に置いておく感覚。自分の手元に置いたままにせず、放つような感覚。それが自己になんらかのプラスなものを与えるということなのだろう。
  • 無駄に頭が回る分、澱もたまりやすいのだ。掃き溜めにされるインターネットという空間としてはたまったものではないのだろうが、今、しばらくの間このアホな営為に付き合って頂きたい。
  • 追記:20160507 タイトル変更 旧 "思考をディクテーションできない"