砂川判決の判例としての射程について

allezvous.hatenablog.com

上のエントリについて反論する。

 

1.統治行為論*1判例の部分は日米安保に限定されたものか?
2.判決要旨は判例ではないのか?

主だった論点は上記2つだと思うので各々論ずる。*2

1.統治行為論判例の部分は日米安保に限定されたものか?
→限定されない。

実際の判決で選挙制度について援用されている。(高裁の本案前の答弁の理由において)

憲法八一条は、具体的訴訟事件につき裁判所に違憲立法審査権を認めているが、三権分立憲法の原則である以上その審査権には自ずから限界があり、立法府自らの解決が要請される高度の政治問題については立法府の専権事項として司法判断が不適合とされている。この点については既にいわゆる砂川判決等において判例上も認められているところである。http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail5?id=36026 (全文PDF P.16)

なので日米安保について限定されるという認識は誤りである。

(20150619追加) 上の引用は被告主張であり裁判官の判断ではない。私の恥ずべきミスであり訂正し、失礼ながらも以下の論拠に差し替えする。

 

砂川判決は実は新安保条約にも判例として適用されている。お前は何を言っているんだと思われるかもしれないが、実は砂川判決(1959年)自体は旧日米安全保障条約に対して下された判決である。その後、いわゆる60年安保として実質改定されたが、形式としては別条約である(ただその違いに固執するつもりはない)。

さて、新安保条約についての適用は 昭和44年4月2日に最高裁大法廷によって国家公務員法違反の事件についてなされた。(以後、新安保判決と呼ぶ。もっとちゃんとした名前があるかもしれないが。)*3

注目すべきはその適用のされかたである。(下記引用は判決の理由部分からである。強調は引用者による。)

しかし、新安保条約のごとき、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係 をもつ高度の政治性を有するものが違憲であるか否かの法的判断をするについては、 司法裁判所は慎重であることを要し、それが憲法の規定に違反することが明らかで あると認められないかぎりは、みだりにこれを違憲無効のものと断定すべへき(原文ママ)では ないこと、ならびに新安保条約は、憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に反し て違憲であることが明白であるとは認められないことは、当裁判所大法廷の判例( 昭和三四年(あ)第七一〇号、同年一二月一六日大法廷判決、刑集一三巻一三号三 二二五頁)の趣旨に照らし、明らかであるから、これと同趣旨に出た原判断は正当 であつて、所論違憲の主張は理由なきに帰する。

http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=50779

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/779/050779_hanrei.pdf P.7

「新安保条約は~である」という言い方ではなく「新安保条約のごとき~は」という一般化された表現になっている。これは砂川判決、判決要旨八項*4と同じ形である。

allezvousはこの表現を「判決を過度に規範化している点でやり過ぎだ」と批判したが、実際は「過度に」規範化されたものが用いられている。何のことはない、つまり砂川判決の判決要旨八項は「過度な一般化」ではなかったのである。

もし仮に砂川判決は特殊であり、新安保判決が特段の事情があって一般化の必要があったのだとしたらその論理が示されるべきだがそういったものは見当たらないし、そもそも示したところで特殊論となる砂川判決の「趣旨に照らす」ことなどできないであろう。

よって砂川判決の統治行為論判例の趣旨として安保(新旧問わず)に限定したものではないといえるだろう。

また傍証となるが、別の判決の傍論として裁判官の砂川判決についての認識が提示されている。

多数意見が、各選挙区に如何なる割合で議員数を配分するかは、立法府である国 会の権限に属する立法政策の問題であるとしている点は、私にも異論がないところ である。しかし、多数意見が、現行の公職選挙法別表二が選挙人の人口数に比例し て改訂されないための不均衡が所論のような程度ではなお立法政策の当否の問題に 止るとして、例外の場合すなわち、選挙区の議員数について選挙人の選挙権の享有 に極端な不平等を生じさせるような場合には違憲問題が生じ、したがつて右別表の 無効を認める場合のあることを示唆している点に、私は危惧を感じる。

いわゆる砂川事件の大法廷判決(昭和三四年(あ)第七一〇号同年一二月一六日、 刑集一三巻一三号三二二五頁)が「一見極めて明白に違憲無効であると認められな い限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて」といつているのも同様な 考え方であると思うが、ある事項を原則的には裁判所の司法審査の対象から除外し ながら、例外的にはその事項につき司法審査のおよぶ場合のあることを留保していることは、司法権の権威を守り、裁判官の職務に忠実ならんとする熱意の現われと もいうべきものであつて、それは延いて国民の基本的人権の擁護に奉仕するもので ある。

(略)

http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=053126

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/126/053126_hanrei.pdf P.2

 考え方としては安保条約の部分が「ある事項」というように抽象化されており、なんら安保に限って捉えていないことがわかる。(ちなみにこの意見は、砂川判決や当判決での「一見極めて違憲なら審査するよ」という態度を批判している。つまり国民に変な期待をさせず純粋な統治行為論をとれと言っているなかなか興味深い意見である。)

(追記以上)

2.判決要旨は判例ではないのか?
判例として用いられる場合もある。

最高裁が判決の理由部分において他の判決要旨を参照している事例がある。

~は当裁判所判例の趣旨とするところであり(昭和二六年(あ)第一六八八号、同三〇年六月二二日大法廷判決、刑集九巻八号一一八九頁判決要旨第六点。同二七年(あ)第四二二三号、同三一年七月一八日大法廷判決、刑集一〇巻七号一一七三頁判決要旨第二点。

http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=058682  (全文PDF P.1)

(20150619追記) ※allezvousのコメント*5判例判例の趣旨は異なると指摘された。確かに表現に違いがある。しかし1でみたように判決の趣旨というものはある判決の結論命題を「判例の趣旨に照らして明らかに」するというように用いられる。同様に結論命題は「判例とするところである」という表現もある。いずれも判例の適用という点では重要な要素だ。

これはどちらが正しいということではなく、先の判例と同様の事例(程度はともかく)であれば後者の表現を、先の判例から一般法理を読み取れ、それが今回の事例にも適用できる場合は前者の表現を用いるのではないだろうか。

なんにせよ判例の趣旨というものが先例拘束力を持っていないのであれば重要な判決の理由部分で参照する道理はないと思われるので、そうではないと考えるのが妥当だろう。

(追記以上)


また判決要旨というものは「最高裁判所判例委員会の厳密な検討により各判決に付加された部分」*6であり、調査官が一人で決めるものではない。

また、補足意見であるが横田基地夜間飛行差止等請求事件の最高裁の判決において以下の意見がある。

判例委員会において取り上げられた判示事項・判決要旨は,その判決
の持つ先例的意義・価値を理解する上で重要な導きをするものであることはいうまでもないが,その判示事項・判決要旨がすべて「判例」となると解すべきではないし,逆に判示事項・判決要旨として取り上げられていないからといって「判例」ではないと解すべきものでもない。要するに,その判決が,どのような事案においてどのような法理を述べ,それを具体的事案に当てはめてどのような判断をし,解決をしたのかを理解し,先例としての意義・価値や拘束力があるのはどの部分であるかを探求すべきものである。

http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=34710(全文PDF P.7)

上記意見を読むと「判示事項・判決要旨」というものは基本的に判例となるが、判例にならない部分もあるというように読める。

ともかく「判示事項・判決要旨」なぞ判例ではないという認識ではないことは確かだろう。

 

判決要旨を巡る議論は他にもあったので参考に紹介する。強調は引用者による。

この判例委員会による「判示事項」「判決要旨」の判決文からの摘出を,そのまま判例とみてよいかが,これまで判例の学問的な研究の際に問題とされた点である。学問上は,事案との関係で先例規範の範囲を独自に抽出確定することが重要であるとされた。大村敦志ほか・前掲注17)318頁

(「判例に関する覚書」P.227)

※元々は大村敦志ほか『民法研究ハンドブック』P.318 によるものと思われる。孫引き失礼。

 

「判示事項」「判決要旨」は判 決そのものの内容を構成するものではなく,「その判 決・決定がなされたあとでその裁判をした大法廷・ 小法廷ではない第三者(判例委員会)の作成したもので,判決・決定の一部をなすものではない。」 (中野次雄編「判例とその読み方」(改訂版)(30頁)) そして,同書は,「判例集に登載する裁判の選択は, 最高裁判所に置かれている判例委員会でなされる (判例委員会規程 1,2 条)。7 人以下の裁判官が委 員となり,調査官および事務総局の職員が幹事と なって,原則として月 1回開かれている。そこで, 判例集に登載されることが決定された判例について は,幹事の起案した判示事項,判例要旨,参 照条文なども審議決定される」(106頁)とし,以下 の通り説明されている。「もちろん,作成者としては, その裁判の「判例」だと自ら考えたものを要旨とし て書いたわけで,それはたしかにわれわれが「判例」 を発見するのに参考になり,よい手がかりにはなる。 少なくとも,索引的価値があることは十分に認めな ければならない。しかし,なにが,「判例」かは大いに問題があるところで,作成者が判例だと思っ たこととそれが真の判例だということとは別である。 現に要旨の中には,どうみても傍論としかいえないものを掲げたものもあるし 稀な過去の例ではあるが,裁判理由とくい違った要旨が示されたことすらないではない。判決・決定要旨として書かれたものをそのまま「判例」だと思うのはきわめて危険で,判例はあくまで裁判理由の中から読む人自身の頭で読み取られなければならない。」(30 ~31頁) 

村林 隆一「判例と傍論 」

https://www.jpaa.or.jp/activity/publication/patent/patent-library/patent-lib/200304/jpaapatent200304_079-084.pdfP.81

これまた中野次雄編「判例とその読み方」によるもので孫引きとなり申し訳ない。

 

以上の議論を総合すると、「判例判例単体で成立するのではなく、別の事案とのかかわりにおいて確定する。判例要旨は判例として参照されることもあるが、おかしなこともあるので気をつけること。」と言ったところだろうか。私としては完全に同意しかねるところもあるが、そもそも日本の判例法は事実上のものでしかないので、個々人の良心に負う部分が大きくなるのは避けられないのかもしれない。

まとめ

砂川判決に話を戻すと判例としての統治行為論は事案や読み手の裁量によって適用され方が異なると思われるが、実務上は1で述べたように選挙制度にも一般化された形で適用されている(20150619訂正)。よって客観的には日米安保には限定されていないのは明らかだろう。

以上

*1:砂川事件で用いられたそれは変則的といわれているが煩雑になるのでここでは統治行為論とする。

*2:allezvousの主張に対して、私が反論に必要以上の主張を入れたために議論が枝分かれしているきらいがあったため論点を絞る。元エントリではマクリーン事件に言及した部分があったのでそれについては後日エントリをあげたい。

*3:ちなみにこの判決自体は大変興味深い。というのは新安保の前文には日本が集団的自衛の固有の権利を有していることを確認するとあるからだ、つまり最高裁はそれを認めている。つまり、持っているが行使できないのであれば日本は行使できない権利に基づいて米と約束をしていることになる。これは信義則としても憲法九八条二項としても問題だ。もっと言えば集団的自衛権を行使しないことこそが憲法違反であるという論立ても可能のように思われる。これは別途検証したい。

*4:「安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否の法的判断は、純司法的機能を使命とす る司法裁判所の審査に原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外に あると解するを相当とする。」http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=55816

*5:本エントリコメント欄参照

*6:判例に関する覚書」http://www.sllr.j.u-tokyo.ac.jp/06/papers/v06part11%28tsuchiya%29.pdf P.227