自衛権をどう行使するかは憲法を気にせず、みんなで決めましょう

結論

自衛権は個別的、集団的を問わず合憲であり、どう行使するかは憲法を気にせず、みんなで決めてよい。

 

理由

最高裁砂川判決の判決要旨において

憲法第九条は、わが国が主権国として有する固有の自衛権何ら否定してはいない。(判決要旨の四)

 

わが国が、自国の平和と安全とを維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置を執り得ることは、国家固有の権能の行使であつて、憲法は何らこれを禁止するものではない。(判決要旨の五)

と判断している。・・・① (強調は引用者によるもの、以下同様)

ここでいう固有の自衛権とは国際連合憲章に基づくもので以下のように言及されている。

そして、右安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあるこ とは明瞭である。

 上の部分はあくまで安保が高度の政治性を有するということを述べるための部分だが、最高裁固有の自衛権=個別的および集団的自衛の固有の権利と考えているのは自明だろう。・・・②

また、

安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否かの法的判断は、純司法的機能を使命と する司法裁判所の審査には原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲 外にあると解するを相当とする。

(判決要旨の八)

 

違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて~

(略)

終局的には、主権を有する国民の政治的判断に委ねらるべきものであると解するを相当とする。

(理由の二)

とも言っている。・・・③

つまり簡単にまとめると、最高裁

憲法は個別的にも集団的にも自衛権を否定しないよ。(①、②より)

国家の根幹に関わる法律等の審査は、明白に違憲じゃない限り司法審査権の範囲外(今回は合憲と判断したけど)なので、実際どうするかはみんなで決めてね。(③より)

といっていることになる。

なので自衛権をどう行使するかは憲法を気にせず、みんなで決めましょう。

 

※ 以降、Q&A方式で補足する。

Q.今回の安保法制は明白に違憲じゃないの?→じゃないです

砂川判決の統治行為論の部分(上記の③)ばかり取り上げられるので、今回の安保法制は明確に違憲だろ!みたいな主張をする人がいるが、判決を読んでもらえば分かるとおり、「憲法第九条は、わが国が主権国として有する固有の自衛権を何ら否定してはいない」ので、少なくとも九条によって違憲と主張することは最高裁の判断と矛盾する。そういう人は判決を読んでいないのだろう。

また、憲法学者でも合憲とする人はいるのだから、一見極めて明白に違憲でないことは客観的にも明らかだろう。

Q.判決要旨部分だから傍論であって、先例としての拘束力はないんじゃないの?→ある

最高裁判所判事で東京大学名誉教授の伊藤正己の見解を引用しておく。

最高裁判例集に登載される裁判は、最高裁自身が判例として承認したものであり、裁判に関与した裁判官にとって判例的価値の大きいものと考えられることは当然である。(中略)とくにそこで判示事項とされ、判決要旨としてかかげられるところは、一般的な命題の形でかかれているためにその射程範囲について問題はあるとしても、判例としての拘束力をもつことに疑いがない。

(伊藤正己「裁判官と学者の間」P.59)

簡単に言うと、判決要旨は何に適用されるかはともかく先例としての拘束力がある。自衛権についての違憲審査が今後、あったときに先例として踏襲される可能性が極めて高いということ。もちろん法的に拘束されているわけではない。

(20150619追記)

もっと細かい点についてはallezvousとの議論があるので興味ある方はそちらを参照のこと。

 Q.個別的自衛権についてだけ認めてるんじゃないの?→判決としては日米安保についての判断だが、判例としては集団的自衛権も含んだ形で拘束力を持っている

そもそも日米安保自体が個別的なのか集団的なのかは後述するとおり、政府でも混乱があった。

しかし前項で述べたとおり判例としての拘束力がある判決要旨では2つを分別せずに固有の自衛権として認めるように判示していることから、集団的自衛権も認めていると読むのが妥当だろう。

お前が言ってるだけだろとか言われそうなので九州大学名誉教授憲法学者・横田耕一の見解も載せておく。

 なお、司法審査権をもつ裁判所は、安保条約については最高裁砂川事件判決 (一九五九年)などで、自衛隊については札幌高裁・長沼事件判決 (一九七六年)などで、安保条約や自衛隊など「国家の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性をもつ」ものについては、「一見極めて明白に違憲無効と認められない限り司法審査権の範囲外にある」として憲法判断を回避した。このため、九条と自衛隊・安保条約の整合性の有無は国民ないし政治の判断にまかされている。この判断が維持される限り、仮に閣議決定や法律などで、『案』のごとき改正を経ることなく、集団的自衛権」の行使が合憲として容認されたときには、具体的事件に関し訴訟が提起された場合でも、裁判所は同様の判断を示すであろう。

(横田耕一「自民党改憲草案を読む」 P.71) *1

なので100%ありえないと言うような読み方では当然ない。

(20150615追記) 政府見解も概ねその通りに統一された。

防衛相 砂川判決は集団的自衛権排除せず NHKニュース

法制局長官、集団的自衛権「砂川判決で許容」 :日本経済新聞

Q.「固有の権利」ってなに?→自然権です

固有ってなんだ?と思う人がいるかもしれないので補足しておく。

孫引き的になるが、国際政治学者の佐瀬昌盛の見解を石破茂が著書で紹介しているので引用する。

佐瀬昌盛先生は、「固有の権利」とは人間でいうところの「自然権」、つまり生まれながらにして持っているものだと述べています。その論拠の一つとしてこの部分の外国語での表記を示しています。以下、それをかいつまんで紹介いたします。
英語で「固有の権利」の部分は「the inherent right」。このうちの「inherent」は「固有の」「本来の」「生来の」「……に内在する」という意味です。  佐瀬先生は次にフランス語訳、中国語訳の該当部分を引きます。フランス語では「droit naturel」。「naturel」は「natural」と同じですから、まさに「自然権」と訳されていることになります。また、中国語では「自然権利」とそのままの訳語があてはめられています。その他、スペイン語、ロシア語、ドイツ語の訳も検討したうえで、佐瀬先生は「固有の権利」とは「自然権」と同じだと断じています。

石破茂 「日本人のための「集団的自衛権」入門」 P.29-30)

つまり自然権なので憲法前の権利として、国家が当然に持っている権利であると、国際連合憲章も日本の最高裁も判断しているのである。

 

Q.政府見解が変わりすぎじゃない?→マジで変わりまくり

本当はもっと変わっているのだが大事なところだけ取り上げる。

そもそも政府は日米安保=集団的自衛権として考えていた!(60年当時)

他国に基地を貸して、そして自国のそれと協同して自国を守ることは、当然従来集団的自衛権として解釈されている点であり、そういうものはもちろん日本として持っている」(岸信介総理答弁 参議院予算委員会 1960/3/31)(同書 P.61)

 このように当時(砂川判決はもうちょっと前だが)の政府は安保自体が集団的かという認識であり、最高裁もその含みを持っていたために判決文でも特に個別的、集団的を分別せずに自衛権としてまとめて論じたのではないだろうか。

もし現状でも日本が侵略されたら自衛隊と米軍が協力してことにあたるので、当然それは集団的自衛と考えるのが当然ではないだろうか?だから集団、個別というのは基本、原則、様態によって判断するのであって、自衛の対象のみによって判別すべきではないと私は考える。(つまり国外に行くことだけを集団的自衛と考えるのは誤り)

※ただし、現政府見解では日米安保に関しては個別的自衛権の範囲だと言っている。

でも個別的自衛権だけと解釈するようになった

1981年の鈴木善幸内閣のときに以下の見解が出された。

「我が国が国際法上、集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然であるが、憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと解している」(1981/5/29 政府答弁書) (同書 P.64)

(岸の答弁とあわせるとじゃあ在日米軍はどうなるのって感じだが・・・細かいことは置いておく)

 

自民公約、閣議決定として集団的自衛権の復活

去年(2014年)の閣議決定集団的自衛権がポッと出てきたと思う人も多いかもしれないが実は2012年の衆院選から自民は公約として掲げていた。(PDFなどはこちら

日本の平和と地域の安定を守るため、集団的自衛権の行使を可能とし、「国家安全保障基本法」を制定します。

(第46回衆議院議員選挙(平成24年度)自民党政権公約 P.21より )

ただし、2013年の参院選以降は集団的自衛権の文言を削っており、ややずる賢い印象がある。

国家安全保障会議」の設置、「国家安全保障基本法」「国際平和協力一般法」の制定など、日本の平和と地域の安定を守る法整備を進めるとともに、統合的な運用と防衛力整備を主とした防衛省改革を実行します。

(第23回参議院議員選挙(平成25年度)P.27)

 

「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」(平成26年7月1日閣議決定)に基づき、いかなる事態に対しても国民の命と平和な暮らしを守り抜くため、平時から切れ目のない対応を可能とする安全保障法制を速やかに整備します。

(第47回衆議院選挙(平成26年度)P.24)

 

閣議決定については憲法上で許される範囲内で集団的自衛権が行使できるといっているが、実のところ冒頭の結論に基づけば集団的自衛権であれば元より憲法関係なく許されるのである。しかし、憲法解釈と絡めて論ずるあたり、内閣としては最高裁判断よりも抑制的に憲法解釈を行っているのだろう。もっと言わせてもらうと下手に憲法に絡めるから話がややこしくなるのである。「あ、実は憲法関係なかったわw」で本当はいいのである。大抵の人はこんなことを言うとビビるとは思うが、最高裁はそう言っているのである。私もビビった。

解釈改憲と批判する向きがあったが、あくまで政府の憲法解釈が変わっただけだ。(あるいはその人にとっては政府の解釈が憲法だったのかもしれないが。あるいはころころ解釈の変わる政府は信用できん!という批判はありだろう(だからきちんと法律を作ろうとしているのだが)。)

ともかく、文言の変遷はあるものの公約を掲げて三度も選挙を勝ったのだから、国民的合意は得られていると考えてよいだろう。自民は自信をもって審議、採決を進めていけばよい。

 

今回の法制案の審議、議論では表に出てきていない石破茂だが、↓の本は大変参考になった。彼も改憲不要で集団的自衛権行使が可能と考えている論者の一人だ。

日本人のための「集団的自衛権」入門 (新潮新書 558)

日本人のための「集団的自衛権」入門 (新潮新書 558)

 

 

石破も政府見解の変遷にはげんなりしているようで以下のように述べている。

「我が国は集団的自衛権国際法上保有しているし、憲法上も保有している。憲法上行使もできるが、政策判断としてこれを行使しない」と政府が言ってしまえばすっきりしたものを、行使しない根拠を憲法解釈に求め、ましてや「憲法上行使できない」としてしまったところに、そもそもの混乱の始まりがあったのではないでしょうか。

(同書 P.77-78)

残念ながら砂川判決についての見解などはないが、集団的自衛権については今のところ一番わかりやすい本だと思うのでお勧めしておく。

以上

※20150615 一部本文修正。判決リンクを最高裁ページに変更。

*1:細かい話だが、この本は自民党改憲草案が付録としてついているが太鼓もち本などではなく草案に対して基本、批判的に書かれている

「McGraw-Hill社への訂正勧告」での推計についての考察

 以下は会見記事についての自分のブコメである。

「強制連行があったとするマグロウヒル社の記述は誤り」従軍慰安婦問題で、秦郁彦氏、大沼保昭氏が会見

欧米はマクドゥーガル報告を筆頭に無根拠の数字(強制連行20万、4分の3死亡)をあげつらって吉見から指摘されても居直るほどの歴史捏造主義が跋扈している。言われっぱなしじゃ黙認と看做される。きちんと糾すべき。

2015/03/17 21:37

はてなブックマーク - 「強制連行があったとするマグロウヒル社の記述は誤り」従軍慰安婦問題で、秦郁彦氏、大沼保昭氏が会見

大沼は基金を受取を申し出た慰安婦の名前をわざわざ秘匿したのに、韓国社会でそれが暴露され、ハラスメントを受けたことに強く憤ってるんだろう(それこそセカンドレイプ)。慰安婦自身の意思が置き去りにされてる。

2015/03/18 06:42

 慰安婦問題はコメに書いたようにさまざまな論点があるが、今回は「McGraw-Hill社への訂正勧告」で示されたの兵士一人一日あたりの慰安所利用回数についての推計について考察する。

記事中、秦が

また20万人の慰安婦が毎日20人から30人の兵士たちに性サービスをしたと書いてあるんですが、当時海外に展開した日本軍の兵力は約100万人です。教 科書に従えば、接客は1日5回という統計になりますから、20万人が5回サービスすると100万になりますので、兵士たちは戦闘する暇がない。毎日慰安所 に通わなければ計算が合わなくなるわけですね(会場から笑い)。そういう誇大な数字が教科書に出されているということです。

と言っているが、正直どういう計算かよく分からなかった*1。が、詳細は訂正勧告に書いてあったようで、その中身は藤岡信勝のfacebookで確認できた。*2

それによると以下の計算になるようだ。

⑥ between twenty and thirty men each day ②と⑥は、きわめて誇大な数字であり、自己矛盾(self-contradiction)の関係にある。「20万人の慰安婦」(②)が「毎日20人~30人の男性を相手にした」(⑥)とすれば、日本軍は毎日400万回~600万回の性的奉仕を調達したことになる。他方、1943年の日本陸軍のoverseas兵力(strength)は約100万であった。教科書に従えば、彼らは全員が「毎日、4回~6回」慰安所にかよったことになる。戦闘する暇も、まともに生活する暇さえもなくなる。

 当初、自分は100万は大戦中のoverseas兵力の平均値だと思っていたのだが、1943年の値のようだ。

また、会見記事中の「接客は1日5回」も慰安婦一人あたりの接客数かと自分は読んでしまい、ひどく混乱してしまっていたが、実は兵士が「彼らは全員が「毎日、4回~6回」慰安所にかよった」という計算だったようだ。

 つまり、まとめると

兵士が一日に慰安所に通った回数

慰安婦数×慰安婦一人の一日当たり接客数÷兵士数

=20万×(20人~30人)÷100万

=4~6回

 ということだ。

 ここで問題になるのは兵士側は1943年の値*3を使っているのに、慰安婦数はマグロウヒル社の20万をそのまま使ってよいのか?ということである。

原文(こちらも前出のfacebookページで確認可能。外務省の仮訳もある。)では

as many as two hundred thousand women

 となっており、「最大で20万人の女性」といったところだろうか。同一時期の最大が20万だったのか、のべ人数の推計の上限としての最大なのかは明記されておらずわかりづらい。

前者としては、1943年時点の慰安婦数が分かっていればそれを使うのがベストだが、マグロウヒル社は根拠なく20万をあげているので当然そんな数字はない。

後者としては、教科書の文面をみるに慰安婦は奴隷的扱いを受けていたという前提のようなので、廃業の自由はなく、交代率*4は低かっただろうと想定できる。

なので、平均値≒のべ数という判断しての推計はざっくりながらもそこまでおかしな考えでもないだろうと自分は考える。

いろいろいじくり繰り回すより一旦、分かりやすい計算で提示して相手の反論を待つというのも一つの議論の形ではないだろうか。

 

とはいえ、教科書では

戦闘地域に配置され、これら女性はしばしば、兵隊らと同じリスクに直面し、多くが戦争犠牲者となった。他の者も、逃亡を企てたり、性病にかかったりした場合には、日本の兵士によって殺害された。戦争の終結に際し、この活動をもみ消すために、多数の慰安婦が殺害された。

 ともある(当然、根拠なしの記述だが)ので、交代率が高い推計を考えてみる。

具体的な値を考えられるほど、自分は賢くないのでアジア女性基金のサイトのデータを借りる。

 

研究者たちの推算  

研究者名 発表年 兵総数 パラメーター 交代率 慰安婦
秦郁彦 1993 300万人 兵50人に1人 1.5 9万人
吉見義明 1995 300万人 兵100人に1人  1.5 4万5000人
兵30人に1人   2 20万人
蘇智良 1999 300万人 兵30人に1人    3.5 36万人
4 41万人
秦郁彦 1999 250万人  兵150人に1人      1.5 2万人
 

参考文献:

吉見義明 従軍慰安婦岩波新書、1995年
    秦郁彦 『昭和史の謎を追う』下、文藝春秋、1993年
      慰安婦と戦場の性』新潮社、1999年
    蘇智良 慰安婦研究』上海書店出版社、1999年

※ちなみに上表の計算は兵士何人に対して慰安婦一人が割り当てられたかというパラメータに基づくので冒頭の推計とは計算方法が異なる。計算式は「兵総数÷パラメータ×交代率」である。

 

上表の吉見義明はマグロウヒル社を守ろうというアメリカの声明に参加しているので彼の値、交代率2、兵総数300万を用いる(慰安婦数も一致する)。*5

これらの値で冒頭の推計をやり直すと

慰安婦数÷交代率×慰安婦一人の一日当たり接客数÷兵士数

=20万÷2×(20人~30人)÷300万

=0.66~1回

となり、兵士は2日か1日に1回しか慰安所にいけないことになる。

始めの推計より大分少なくなったが、現代社会で毎日、一日置きに一回ソープに行く人は相当な風俗狂と思われ、これでも過大な値のように感じる。

実際、秦は計算過程は異なるが、似たような結果の推計に対して以下のように断じている。

全兵力300万が戦争もせずに毎日1.3回か、三日に一回の割で慰安所通いをせねばならぬバカバカしい話になってしまう。慰安婦数かサービス頻度をうんと減らさないと、兵士の余暇と収入に見合う計算は成り立たない。『慰安婦と戦場の性』P.404

 

推計はあくまで推計なので、唯一ではなく、これはこれこれこういう判断で計算しました。という形で複数提示されても問題なく、むしろ自然な形だろう。実際、吉見も秦も複数の推計をしている。個々の推計に是々非々があるのは当然の話だ。

 

余談だが、マグロウヒル社の教科書では14歳から20歳までの女性が慰安婦にしたと書いてあるが、実際には30歳以下可として募集している広告がある*6ことから完全な事実誤認だ。これだけでもマグロウヒル社が如何に適当な認識で教科書を作っているかわかるだろう。日本兵をロリコンとでも印象づけたいような記述であり、20歳以上で慰安婦になった人を完全に無視している。

 

自分も別に秦が無謬だと思っているわけではないが、より正しい歴史認識を求める人々はぜひともマグロウヒル社やそれを擁護しようとする吉見にも同じく厳しい視線を向けて欲しいものだ。

 

慰安婦と戦場の性 (新潮選書)

慰安婦と戦場の性 (新潮選書)

 

 

従軍慰安婦 (岩波新書)

従軍慰安婦 (岩波新書)

 

 

 

*1:なのでブコメでは既知の誤謬についてだけ言及した

*2:公開設定じゃないからgoogleで引っかからなかったようだ。なんともめんどくさい話だ。

*3:この値だが、後出の表から随分減っているが、それは後出は1944年時の値を使っているからである。また、満州は内地とみなして差し引いていると思われるが、それは本人に確認しなければ分からない。さすがに説明不足感がある。

*4:人がどれぐらい入れ替わったかのパラメータ

*5:ちなみにこの300万は秦の93年の推計を参考にしている。
"秦郁彦はつぎのような推計を試みている。アジア太平洋戦争期に軍慰安所が置かれていた海外地域の兵員数を平均300万人とし、兵員50名に1名の慰安婦がいたとみて、慰安婦がまったく入れ替わらなかったとして6万、1.5交代したとして9万とする(『昭和史の謎を追う』下巻)。海外にいた兵員数は42年で232万人、45年8月で351万人だから、軍慰安所のなかった地域や内地での軍慰安所の存在を考慮に入れれば、300万人という基数は妥当なところだろう。(吉見義明『従軍慰安婦 』P.78)"

*6:書籍では『慰安婦と戦場の性』P.384で確認可能

風立ちぬが意外とよかった件

庵野の第一声で大爆笑だった。ニコニコの実況でもコメの量が半端なかった。ただ、なかなかどうして。見て行くにつれなかなかよい作品だと思わされた。

正直、作品単体としてみたときには、ポニョ以上、千尋以下といったところでそこまで名作とは言えないだろう。例えばトトロを100点とすると30点ぐらいかそこらといった印象だ。作品中の要素の構成、完成度、音楽の盛り上がり、声優の質、などが不十分で直すべき点は山ほどある。

ただこの作品がひとえに痛快なのは、宮崎駿表現者として突き抜けた描写をしていたことによるものだろう。結核の嫁の前で煙草を吸うシーンはその最たるものだろう。

嫁を殺してでも俺は吸う!と言わんばかりの紫煙の量。インモラル感あふれる刹那的な結婚、キスシーン、初夜(しかも女性から誘うというね)といった表現の数々。既存のジブリのイメージに縛られない非常に自由に作られた作品だなという印象をもった。

そういった表現者の自由さというものを素直に感じれるからこの作品は気持ちいいのである。表現者は好き勝手してなんぼなのである(↓参考記事)。

 

 

 

またこの作品では仕事でも、家庭でも相克を抱えながら生きる男の悲哀というものが(そこまで深堀りはされないものの)描かれている。自分自身、妻と子がいる身なのだがこれまでの人生ではそれなりの吸いも甘いもあった。そういった土台があって初めて「生きねば」という言葉がしみじみと伝わってくるように思える。正直、中高生や薄っぺらい生き方をしてきた人間がみても深く感動するというのはなかなか難しいのではないだろうかと思う。(逆にいうと、そういう自分自身の思い出補正があるから感動できるだけだという言い方もあると思うが。)

おそらく宮崎自身もそういったものを抱えて生きてきたのだろうなというところに思い至り、自分と日本の巨匠との間での繋がりみたいなものを見出せるという点でもこの作品はおいしいと思われる。

つまり、作品そのものというよりこの作品を通して、表現者として、男としての宮崎駿の生き様が垣間見えるからこそ風立ちぬは面白いのである。

 

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フィクションで差別を楽しんで何が悪いのか?

少年漫画に見られる女体化すれば馬鹿になる表現と女性キャラの性的消費 - Togetterまとめ

娯楽なんだから消費して当たり前だろ。自分らのことだと思うから敏感なんだろうけど他のはあんま聞かんな。暴力行為の消費!身体障害の消費!紙資源の消費!

2014/12/31 06:44

 

いい悪いの話をすると、法的な面と個々人の倫理観のものさしがある(他にもあるが)。

上の話が前者をもくろんだものではないことは承知だが、「編集が止めるべきだった」みたいな意見を聞くとやはり抑圧というか自粛して当然の雰囲気作りがなされてていると感じる。白眼視する側も単に「嫌い」を超えた批判を行っている印象だ。表現者側はセンシティブにならざるをえない。

 

フィクションの中で「このような犯罪やPCに反する行為、見方が現実において許容されますよ~」と受け止めることのできる描かれ方がされていると物議をかもしやすい(その受け止めがどのようにして成立するかはともかくとして)。

 

例えばLOでは、もし現実では違法になる漫画ばかり掲載してても「YesロリータNoタッチ」を標榜していることにより、現実にはダメですよねと制作側が認識していることを示すことができていると思われる。(それでも叩かれはするが)

 

そういうエクスキューズがない場合、作者は現実においてもそれを許容しているのではないかと思われるわけである。ただ、漫画に「私~~は真人間で有り、作品に描かれている一切の犯罪・差別を現実においては許容いたしません。」と断り書きがあってもなんだか気持ち悪いと思わざるをえない。そういう踏み絵が必然となるのもどうかと思う。

 

暴力表現

 

ワンピースにおいてはバトルの暴力シーンが魅力の核である。それがダメだと叩かれるのはあまり見かけない。話が通じる相手ならば対話によって解決すべきだというのは多くの人が持っているだろうに。

暴力表現は市民権を獲得したと考えていいのだろうか?差別の枠に入らないからスルーされている?もしくはアンパンマン同様、正義の暴力は問題ないという認識もあるかもしれない。安倍ちゃんは集団的自衛権をもっと大胆に進めてもいいのかも知れない。

 

そういう意味では進撃はうまくできていて巨人と話が通じなかったりするから暴力の正当化がしやすい。(対人間もあるにはあるが)

ただ、構図としては戦争表現を娯楽として消費しているわけでケチがつかないわけでもあるまい。日露戦争軍神の活躍を楽しんでいたのに通じる~とかね。

 

やはり整理するとまずい行為が不可避的な状況ではなく肯定的に描かれていると問題になりやすいと言えそうだ。(なんともつまらん結論だ・・・)

 

セクハラと暴力の相殺?

面白かったのは「七つの大罪」のメリオダスのセクハラはエリザベスが嫌がってないからダメだけど、「シティーハンター」はハンマーでの制裁があるからよい(よりマシ)という意見だ。

 

実際には過剰防衛は犯罪になる場合があるので問題である。が、許容してないという表現になっているんだぞということだろう。

逆に暴力女が出てきた場合、お仕置きレイプするというような描写にはどう反応するのか見てみたい。

 

ちなみに「七つの大罪」のほうはエリザベス役の声優さん(当然女性)によるとエリザベスがセクハラと認識していないという解釈らしい。しかしこれまた炎上しそうなコメントですこと・・・。

 

劇中では、主人公のメリオダスがエリザベスによくセクハラをしていますが、その部分について触れられると、「自分がセクハラされている事がわかっていなくてそれを受けとめてしまうエリザベスが王女さまらしくて可愛い、って思います」と雨宮さん。
梶さんは「エリザベスのセクハラシーンは、アフレコ現場で他のキャストさんに梶が言うとさわやかでズルイと冷やかされました(笑)」というエピソードを披露してくれました。

TVアニメ「七つの大罪」公式サイト

 

セクハラされていることがわからないのがかわいいですってよ!

 

相手が嫌がってないからセクハラじゃないという反論もできそうだ。しかし、普通に解釈するとみの○んたよろしく立場的に上なのを利用して触ってるという見方にならざるを得まい。命かけて守ってんだからケツぐらい触らせろと。ただ、体で支払うのが即悪だというのもどうなのかという気もする。お金を払ってお触りすることが法で禁じられているわけでもない。お金がないなら体で払ってねというのは個人間の取引としてはありえる話だ。 ただこんなことをリアルに主張しても全うな女性陣からは白い目で見られることうけ合いである。

個人的には裏で愛人契約を結んでいて、エリザベスが始めはいやいやながらも徐々に・・・という展開が好きなので薄い本はよ!(ちなみに愛人契約自体は公序良俗違反で無効らしい)

 

開き直り

正直、理屈で反論を重ねても浮気の言い訳をしている感、満載でむなしい。アホくさい。

真の結論としては掲題のとおり「フィクションで差別を楽しんで何が悪いのか?」と言わざるをえない。

現実の社会においては法律やらPCに沿って生きねばならないが、一方で差別したい心、セクハラしたい心があり、それをフィクションで満たすことの何が悪いというのか?

そういった二面性があるのが人間だし、そもそもそうした現実の歪みこそが創作の原点であって、完全にきれいな作品が見たいのよ~って連中はちょっと都合がよすぎるんじゃないですかね。ディズニーとかボノロンだけ見とけよ。

お前はイエスキリストか?一つも悪い想像したことないっていうんですかね?人を殺したい。殴りたい。幼女を犯したい。美女のケツをぐいと鷲づかみにしたい。結構なことじゃないですか。思う分には。

フィクションでそれを楽しんで何が悪いってんだ。俺のサンクチュアリに土足で入ってこないでください。お願いだから。

 

 

Alignされたはてなスターが気持ち悪い

  • またもやブコメページのレイアウトが変わったようだ。
  • 掲題のとおり、そろったスターが気持ち悪く感じる。
  • 一列にそろって個数がわかりやすくなり、よーいドンを強いられている印象をうける。いいこでちゅね~って言われてる感じ?よくわからんが。
  • 思い返すに句点的意味合いを持っていたのだろう。

 

POP STAR

POP STAR

 

 

"性的指向"の政治的意味あい

  • なぜ、「性的指向」という言葉を使いたがる人間が「性的嗜好」という言葉と混同されることを嫌うかというと政治的目的があるからである。
  • 高尚な目的があるのだから、同じにするなということである。
  • どういう目的かというと「異性愛者」が法的に享受している権利と同等の権利をLGBTにも与えよという目的である。
  • つまり、現行の仕組みは「X性愛者」にとって特権的なのだから他の「Y性愛者」や「Z性愛者」に対しては差別だろと訴える。そして、その不平等を解消をもくろむわけである。
  • そういう切り口で「性的指向」という言葉を使うわけだ。
  • 他の性的嗜好は基本的にはそういう問題はない。SMが「口にするのも汚らわしい」とか言われることもあったりはするようだが、サドとマゾの結婚が禁じられているということはない。
  • しかし、よく引き合いに出されるのが「ロリコン」である。
  • 日本の法律では16、8歳以上でないと婚姻できない。Hするとつかまったりする。
  • これはロリコンに対する差別だという主張ができないわけでもない。
  • これに対する反論はある年齢以下だと責任能力が低いので、結婚や性交渉を制限するのには合理性がある。というものだ。
    しかしこれには2つほど反論が考えられる。
    少年法の改正はより年齢が低くても責任能力は問えるという方向に進んでいる。婚姻や性交渉についてその方向の議論にならないのはなぜか?大人側が管理しやすい方向に進んでいるだけではないか?
    →年齢はざっくりとした判断にすぎない。心身の成長は人によって異なるのだから、個別に責任能力を判断すべきである。
  • いずれにせよ、問題になるのは子供の権利侵害になるのかどうかという点である。だから見方を考えると「いや、別にロリコンを差別してるわけじゃないってw」という見方はできる。自分も概ねそのように考える。
  • 実は性的指向についても同じ見方ができる。
  • つまり、現行の制度は「異性間」に与えられたものであって、個々人の性的しこう?なんて気にしちゃいませんよwという見方である。
  • つまり社会が継続を指向するなら人口の再生産を行える異性間の関係を優遇するの当然であって、再生産のできない、むしろ阻害するような関係性に対しては、抑圧的になるというのは合理的であるという考え方だ。
  • LGBTを罪とするのは行き過ぎとしても、人口の再生産を行うものと行わないものとで税制・福祉制度上での差別化が図られたとしてもそこまでおかしな話とも思えない。(というか現行はそうなっている。)
  • 細かい話をすると、結婚をしただけで、再生産を行わないものはずるいという話になるので、彼らから優遇を取り上げるというのは一つの方向である。
  • さて、ここらで反論があると思う。LGBTでも子供は育てられるぞ!という反論である。これに関しては以前書いたので参考にして欲しい。↓

 

子供を持つ権利などない - 思考実験室

 

  • 簡単に言うと、血縁関係を本人の同意なく切り離すのは子供の権利侵害になるであろうということである。(例え、当事者が子供との血縁者であったとしても。)
  • もしあなたがどういう形であれ、赤ちゃんを産んだとする。もしその子供が勝手に違う子供と入れ替わっていたとしたら、それはプラスであろうか?マイナスであろうか?大問題であろう。*1
  • 子供からしてみたら、それと同じことが起こるのである。勝手に親が変わるのだ。
  • その全てが悪である、と断ずるつもりはないが、もしそれらについて真剣に考えぬかずに、LGBTでも子供は持てるなどと言うのは、単に己の性的欲求に従って、子供と結婚したいなどと主張するのとなんら変わらないだろう。

 

わたしはマララ: 教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女

わたしはマララ: 教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女

 

 

*1:問題ないという人がいるとは思えないが、もしいるなら子供を自らの政治的目的を達成するための道具とか非難されないためのエクスキューズのように考えているだけだろう。

ヘイトスピーチの基準

国連 日本のへイトスピーチに懸念 NHKニュース

在日外国人の犯罪率は有意に高いので差別ではないですよ

 

  • 例えば、現行法だとだれそれを殺す!とか言おうものならすぐ脅迫罪か業務執行妨害でお縄である。
  • 殺せ!だと教唆になりそうである。あんまり見ないが。
  • デモなどで殺せと言っているのは具体的な対象が明確でなければ脅迫罪にならなそうな気はするが、言われた対象のほうは穏やかではないだろう。
  • 警察がデモを野放図にしているという印象を持つ人がいるかもしれないが、マイクを持っている人が下品な表現を使ったりすると注意したりする。
  • ブコメに書いたとおり、在日外国人の犯罪率は有意に高いし、日本人の収入を押し下げるので単純労働者層は総じて帰って頂きたい思っている。なので自分はデモに参加したら、出て行けぐらいは言うだろう。
  • そういう合理性はあるので、出て行けとか死ねぐらいはセーフで、殺せはちょっと不穏当ですわね。という判断はあるかもしれない。
  • 移民排斥はEUでも起こりつつあるので世界的トレンドであるし、合理性もあるので差別と言われる筋合いはない。

 

ロマの血脈(上) (竹書房文庫)

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